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2006年12月16日 (土)

宗教史学研究所第44回研究会

2006年12月16日(土)に開催された宗教史学研究所の第43回例会の備忘録です。

発表者と題目:

(1)江川純一「イタリア宗教史学の生成:ペッタッツォーニの方法とその問題点」
(2)上村静「聖書の非神話化と再神話化」
(3)島薗進「神道史の叙述はなぜ難しいのか」

詳細は以下参照。

発表1
江川純一「イタリア宗教史学の生成:ペッタッツォーニの方法とその問題点」

〈概要〉カトリックのヘゲモニーに対抗する形で成立したイタリア宗教史学は、1924年1月にファシスト政権によって大学に正式の講座を得た。その初代教授であるラッファエーレ・ペッタッツォーニは、クローチェの歴史主義を批判的に継承することによって、当時主流であった宗教の進化主義的理解と、歴史=文化学派的理解の両方を退けた。デ・マルティーノ、ブレリチ、ビアンキ、ランテルナーリといった後進を得ることになるペッタッツォーニ宗教史学の方法とその問題点について、1910年代以降のイタリアの思想的状況を考慮しながら考えてみたい。なお、今回は「宗教現象学」を容認した50年代のペッタッツォーニは扱わない。

発表2
上村静「聖書の非神話化と再神話化」

〈概要〉聖書は神話である。これは二つの視点からそう言える。ひとつは、聖書は古代人の著作であるため、それは古代人の神話論的表象に満ちているという意味においてそうである。古代人は世界や人間についての現実認識を言語化するに際し、神話論的世界観に基づいて表象化した。もうひとつは、聖書はユダヤ教およびキリスト教の聖典であるということに関わる。両宗教は、聖書に自分たちの信仰の起源を求め、それを実践の規範としてきた。この二つの側面は相補的である。前者なしに後者はあり得ないし、後者がなければ、前者は有意味なものとして伝達されることがない。しかし、神の実在がリアリティーを持ち得ない現代にあっては、もはや聖書を神話としてそのまま保持することは無益であるのみならず、有害でさえある。
 聖書の非神話化は、神話を通して表現された古代人の現実認識を現代人にとってもリアルな事柄へと置き換え、その意味を再確認することであり、その再神話化は再確認された意味を聖書の宗教の外部にいる多くの人にも共有することを可能にする。それは既成宗教の解体を促すかもしれないが、実にその内実を却ってより多くの人に知らしめることを可能にする。

発表3
島薗進「神道史の叙述はなぜ難しいのか」

〈概要〉神道史の叙述は容易ではない。そもそも神道がいつ始まったかについて諸説がある。それは、神道とは何かについての考えがさまざまからでもある。神道は縄文時代から始まったとする人にとっての神道観と近世になって初めて神道は自立したとする人にとっての神道観はだいぶ異なる。こうした神道観の相違を踏まえ、一面に偏らない神道史を叙述していくにはどうすればよいだろうか。まず、いくつか重要な転期とされている時期について、その変化の意義を理解し、なぜそのような変化が生じたかを問う。さらに、各転期において日本宗教史において神道に関わって何が起こったと言えるのかを考察する。このようにして、神道が何かという議論を深めるのと並行して、神道史を叙述していくことができるのではなかろうか。

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